合奏譜頒布会 バックナンバー頒布
No.2407, 行進曲「フランコ・イタリエンヌ」
作曲 : A.ダージェン
○出典 L’Estudiantina, 7ème Année No.130 (1911)
○原編成 第一、第二マンドリン、、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者については、生没年や出身地などの詳しい経歴は明らかになっておらず、現在までに確認できた作品も本作のみである。ただし、当時の誌面から、パリ在住で、1910年にはレンヌ・エストゥディアンティナ(Estudiantina Rennaise)の芸術監督、1912年にはサン=モール(Saint-Maur)の楽団指揮者を務めていたことが確認できる。
本作は、L’Estudiantina誌主催の1910年第5回国際作曲コンクールにおいて、第2部門「舞曲・行進曲の部」の第3位に入賞した作品である。このコンクールの入賞一覧は、L’Estudiantina第104号(1910年9月15日刊)に掲載されており、審査にあたっては芸術的価値だけでなく、「プレクトラム・オーケストラのための作品」であることも重視されたと記されている。その為、楽譜表紙の第4回は誤植と思われる。
題名の“Franco-Italienne”は、「フランス=イタリアの」「仏伊の」を意味するフランス語の複合形容詞である。フランス語では marche が女性名詞であるため、それを修飾する形容詞も女性形の italienne となっている。したがって題名は「仏伊行進曲」ほどの意味であり、フランスとイタリアの友好や文化的な結びつきを表したものと考えられる。
作品は、20世紀初頭に作曲されたイタリアの行進曲を思わせる明朗な雰囲気を持つ一方、どこかのどかで、ゆるやかな時間の流れを感じさせる佳曲である。これまで日本ではほとんど知られていない作品でもあることから、今回取り上げることとした。
No.2408, 情熱的牧歌 四重奏の為のセレナータ
作曲 : A.デル・ブオーノ
○出典 Il Concerto, Anno6-N.20 (1902)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者の生没年はハッキリとしないが、1897年のIl Concerto誌に楽曲が掲載されたおりに、第20歩兵連隊の音楽下士官、と紹介されている事から往時にはすでに軍楽隊員として活動していたことが分かる。和声と対位法を独学で学んだのち、フィレンツェの音楽院でT・コスタンティーニに師事した。その後従軍し、除隊後は各地を放浪したとされる。唯一手がけた歌劇は完成に至らなかったというが、天性のメロディストとして書いた多くの小品は好評を博した。Il Concerto誌の主筆C・トゥルカも彼を高く評価しており、同誌の作曲コンクールでたびたび上位に入賞している。
本作は、Il Concertoが開催した1901―1902年作曲コンクールの〈セレナータの部〉において、A・アマデイ、U・ボッタッキアリ、J・スガッラーリら、当時すでに第一線で活躍していた作曲家を抑え、第一等金牌を受賞した作品である。この時代のマンドリン音楽としては大胆な和声を用い、緩急に富んだ展開を備えている点が興味深い。
楽譜とともに掲載された紹介文では、デル・ブオーノについて、「構想の広がり、効果の扱いの巧みさ、旋律の自然さと流麗さにおいて、すでに第一級の作曲家の一人である」と高く評価している。また、以前に同誌へ掲載された《Plenilunio(満月)》が何度も版を重ね、同誌掲載作品中の最良作の一つとなったことにも触れたうえで、本作については、「この《牧歌》には、おそらくそれ以上に豊かな作曲技法と色彩があり、デル・ブオーノの才能はここにおいて完全な成熟と発展に到達したように思われる」と評している。
なお、デル・ブオーノは同コンクールの〈ワルツの部〉でも、第一等なしの第二等銀牌を獲得している。誌上では、デル・ブオーノをはじめ、アマデイ、ボッタッキアリ、デ・ジョヴァンニ、レボッフェ、スガッラーリらの入賞セレナータを順次掲載し、「選び抜かれた霊感豊かな旋律からなる貴重な首飾り」を読者に提供すると予告している。
楽譜の冒頭には、「わがエミリアへ、永遠の愛情のしるしとして」と献辞が記されている。
No.2409, フォックストロット「ピノッキオの冒険」
作曲 : I.ビテッリ
○出典 Mandolinismo, Anno 4, No.79, 1925
○原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者イニャーツィオ・ビテッリは、20世紀前半のイタリア・マンドリン音楽界で活躍した作曲家である。180曲を超えるマンドリン合奏作品を残したとされる多作家でありながら、生年を含め、その生涯については不明な点が多い。1880年または1881年にラヴェンナ県フジニャーノ近郊で生まれ、1956年にボローニャで没したとされる。
1923年の Mandolinismo 誌に掲載された紹介文では、ビテッリについて「すでに本誌読者にはよく知られており、あらためて紹介を要しない作曲家」としたうえで、15年以上にわたり遠くアメリカにおいても好評を博した弦楽四重奏団の創設者であり、バンドの指揮者、さらにロマーニャ地方で最良と評された「ビテッリ楽団」の指揮者でもあったと記している。しかし、それ以上の詳しい生涯は現在のところ明らかでない。
また、1940年および1941年には、シエナで開かれた O.N.D. の作曲コンクールにおいて、メヌエット《中世の城》と《太鼓手の巡邏》が入賞している。ビテッリの作品の多くは Il Mandolino や Il Concerto などのマンドリン専門誌に掲載されており、とりわけ Il Concerto では、終刊に近い時期になると掲載作品の半数以上をビテッリ作品が占めるほどであった。日本では、1922年に Il Mandolino 誌で発表された序曲《サン・ジュスト》がよく知られている。Il Mandolinoは戦前には萩原廣吉が神戸で営んでいたプレットロ楽譜店や共益商社(楽器部門は後のヤマハ銀座店)などを通じて流通し、戦後は昭和25年に大阪で店を構えたササヤ書店等で容易に入手出来たことから多くの原譜が残されているが、殆どが再販で楽譜のみの為記事が不足しており、楽譜以外に得られる情報は少ない。
本作の曲種であるフォックストロットは、20世紀初頭、1910年代のアメリカで流行した社交ダンスの一種である。ラグタイムやワンステップなど当時の新しい舞曲文化と深く結びつき、1914年頃からニューヨークを中心に広まった。名称については、ヴォードヴィル芸人ハリー・フォックスに由来するという説がよく知られているが、起源には諸説がある。1920年代にはヨーロッパにも広まり、イタリアの軽音楽や出版楽譜にも盛んに取り入れられた。ビテッリも10曲近いフォックストロットを残しており、この新しい舞曲様式に強い関心を持っていたことがうかがえる。
題名に掲げられた《ピノッキオの冒険》は、カルロ・コッローディによる児童文学『ピノッキオの冒険』に由来する。木彫りの人形ピノッキオが、嘘や誘惑、失敗を重ねながら成長していく物語は、イタリアを代表する児童文学として広く親しまれ、のちに映画や音楽など多くの分野でも題材とされた。本作は、そうした国民的に知られた題材を、1920年代の新しい社交ダンスであるフォックストロットに取り込んだ作品である。
結尾部に現れる “Bacchette” は、本来「ばち」「棒」を意味する語である。ここでは旋律的な奏法というより、バチで打つような音階感の乏しい打撃音、あるいは打楽器的な効果を求めた指定と考えられる。実演にあたっては、楽器の響きを損なわない範囲で、各パートが打撃的な発音を工夫すればよいだろう。
※O.N.D.(Opera Nazionale del Dopolavoro)は、ファシスト政権下のイタリアで設立された余暇活動組織で、労働後の文化・スポーツ・娯楽活動を奨励した。一方で、国民の余暇を国家の管理下に置くという、体制的・統制的な性格も持っていた。
No.2410, 夢想「星たちの物語」
作曲 : F.アンドリュー 編曲 : E.バラ
○ 出典 Andrieu frères (アンドリュー兄弟社)
○ 原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、リュート
○ スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○ パート譜 同上
作者は1863年8月6日、南フランスのナルボンヌに生まれ、1935年2月15日にオリー=ラ=ヴィルで没した作曲家、コルネット奏者、音楽教育者である。本名をヴァンサン=ド=ポール・フェルナン・アンドリューといい、パリ音楽院でコルネットを学び、1887年には同科で第2等賞を得た。のちにル・マンの音楽学校でコルネットやトランペットを教える一方、吹奏楽・ファンファーレのための行進曲、序曲、舞曲や、コルネット独奏曲などを多数作曲した。
兄のガストン・アンドリューとともにパリでアンドリュー兄弟社を営み、吹奏楽、ファンファーレ、管楽器独奏、ピアノ曲などを出版した。また、本名のほかWilliam Romsbergの筆名でも作品を発表している。
本作は、マンドリン奏者、作曲家、教育者のエドガール・バラがエストゥディアンティーナのために編曲した小品である。ト長調、4分の4拍子のAndante cantabileで始まり、ギターの分散和音に支えられて、各声部が穏やかで歌謡的な旋律を奏する。中間部ではPoco più animatoとなって一時的に動きを増すが、やがて冒頭のテンポに戻り、終結部はMysterioso、pp、perdendosiの指示のもと、星空の彼方へ消えていくように静かに閉じられる。
編曲者のバラは1902~1904年頃に『マンドリンおよびバンジョリンの完全な理論・実践教則本』を刊行したほか、アンドリューの作品を数多くマンドリン合奏用に編曲しており、アンドリュー兄弟社におけるエストゥディアンティーナ向け編曲の主要な担い手の一人であったと考えられる。
No.2411, タンゴ「甘い苦悩」 作曲 : A.ペラティ
○出典 Il Mandolino, Anno35-Num.14 (1931)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者については各種音楽辞典をあたっても詳細が不明だが、合奏曲、独奏曲とも多数が残っており、スイスのMandolinismo誌が1924年に開催した作曲コンクールで、独奏曲「演奏会用幻想曲第二番」が2等入賞しており、非常に技巧的な曲であることから腕利きのマンドリン奏者であった事と考えられる。
作品は30曲以上あり、その殆どがIl Mandolino誌で発表されている。タンゴという楽曲形式はマンドリン楽界では比較的珍しいのだが、ペラティはタンゴ楽曲を好んで書いていたようで作品の中でも目立った存在となっている。好みの曲種であったのであろう事が伺える事と、本曲がその中でも特にドラマティックかつ技巧的だったので取り上げてみた。
No.2412, 間奏曲「村の朝の祈り」
作曲 : G.アンチロッティ 編曲:M.ビアージ
○出典 Mandolinista Italiano No.340-341-bis (1929)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、リュート、バス、鐘
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、コントラバス、鐘
○パート譜 同上
作者は1884年に生まれ、1951年に逝いたとされるイタリアの作曲家で、ナポリ出身とする資料もあるが、詳しい経歴は明らかでない。1913年にはオペレッタ《Dal negromante》が上演されており、その後も管弦楽曲、サロン音楽、歌曲、タンゴ、舞曲など、幅広い分野の作品を発表した。
「アルモニア文庫解題」によると、ミラノの楽器製造・販売会社A.モンツィーノ楽器商会に関係した人物であったという。具体的にどのような立場にあったのかは判明していないが、同社から1920年代末以降、管弦楽曲やピアノ曲、歌曲などを継続して刊行しており、同社が発刊していた雑誌 Il Mandolinista Italiano にも10曲を超える作品が掲載されている。なかでもマンリオ・ビアージがマンドリン合奏に編曲した作品は、現時点で4曲が確認でき、いずれも変化に富んだ興味深い内容を備えている。
編曲者のマンリオ・ビアージは1896年にテルニに生まれ、のちにミラノで活動したギタリスト、作曲家、編曲家である。作曲・編曲を合わせて200曲を超える作品を残したとされる。
本作は1928年に作曲され、モンツィーノ社から刊行された管弦楽作品を、ビアージがマンドリン合奏用に編曲したものである。明るく賑やかな性格を持ち、第一・第二マンドリンとマンドラがそれぞれ二部に分けられているため、声部数が多く、多層的な響きが作り出されている。
Mattutino とは「早朝の祈祷」を意味する語であるとともに、「日の出を告げる鐘の音」という意味も持つ。本作では、鐘の音とともに村が目覚めてゆく情景を描いた題名と理解するのが自然であろう。静かな夜明け、祈りを思わせる穏やかな場面、人々が活動を始める活気ある場面などが次々と現れ、緩急に富んだ一種の情景音楽となっている。
モンツィーノ社は、アントニオ・モンツィーノが18世紀半ばにミラノで創業した、楽器製造・販売および楽譜出版の名門である。1904年、アントニオ・ジャコモ・モンツィーノ4世は、娘アデーレと息子アントニオ5世を加えてA. Monzino e Figliを組織し、翌年頃には、アデーレの夫カルロ・ガルランディーニも経営に参加した。1918年にアントニオ5世が若くして死去したのち、カルロは巻弦製造や楽譜出版を中心に事業の継続に大きな役割を果たし、その功績を反映して、1926年には社名がA. Monzino & Garlandiniへ改められた。
同社は楽器製造や販売に加え、楽譜出版や雑誌 Mandolinista Italiano の刊行を通して、イタリアのマンドリン文化の発展にも大きく寄与した。現在もモンツィーノ家に連なる事業は企業グループとして継承されており、1987年に設立されたMogar Musicが、楽器や音響機器の輸入、卸売、物流、販売促進などの流通部門を担っている。
本作は「教養と気品を備えた令嬢ロジーナ・ガルランディーニ」に献呈されている。 ロジーナの詳しい素性は明らかでないが、当時のモンツィーノ社には、ミラノの店舗運営に携わったローザ・ガルランディーニという女性がいたことが確認できる。Rosina は Rosa の愛称形でもあることから、両者が同一人物である可能性がある。ただし、現時点ではこれを直接証明する資料は確認できていない。
No.2413, 小さな牧歌的幻想曲 「神秘の夜」
作曲 : G.A.ギニョッティ
○出典 Il Concerto, Anno.7-No.23 (1903)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者についての情報は乏しく、生没年や生没地も明らかになっていない。現在確認できる作品も、1899年から1910年にかけてIl Concerto誌に掲載された6曲に限られている。経歴について判明しているのは、トスカーナ州グロッセート市に属するアルベレーゼのマンドリン合奏団で指揮者を務めていたことのみである。
本作はIl Concertoの1903年12月号に掲載された、いかにもクリスマスの季節にふさわしい小品である。しかし、単純な牧歌的作品にとどまらず、短いながらも起伏に富んだ構成を持ち、フガート風の書法も取り入れられており、興味深い作品と思われることから、今回取り上げることとした。
なお、楽譜の最終部分に書かれたD.C.sino al Fine omettendo la battuta 𝄋”は、「冒頭に戻り、セーニョマークの付いた小節を省略してFinireのと記された小節を演奏して終了する」という意味と解釈しているが、演奏される際には個々にご判断いただきたい。
No.2414, 牧歌「ベツレヘムの洞窟で」
作曲 : C.リッソーニ
○出典 Mandolinismo Anno.8-No.156 (1928)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者はロンバルディア州のヴィメルカーテを中心に活動したマンドリン奏者、作曲家、指揮者、教育者である。1953年2月17日に71歳で没したことから、生年は1881年または1882年と考えられる。若い頃から優れたマンドリン奏者として知られ、独学から出発しながらも、その後優れた教師について音楽的教養を深めた。演奏家としてヴィルトゥオーゾの道を歩むことも可能だったが、むしろ教育活動に力を注ぎ、多くのマンドリン奏者を育てたことが1953年のIl Plettro Italiana誌に、訃報と共に掲載された。
また、晩年には親しい友人であり深く敬愛していたスイスの作曲家S.サルヴェッティを記念して、モンツァで「S.サルヴェッティ・マンドリン・アカデミー」を設立し、愛弟子のジェローラモ・ロッシと共に活動した。この団体はリッソーニの死後「カルロ・リッソーニ・プレクトラムオーケストラ」と改称した。
リッソーニは多数のマンドリン合奏曲を残し、舞曲風の小品を多く書く一方、技巧的な作品や、和声的・構成的に充実した作品も少なくない。作品番号が200番台に達する例もあり、相当数の作品を作曲していたことがうかがえる。
当初はIl Plettro誌で作品が発表されていたが、1916年以降、第一次世界大戦の影響で Il Plettro は一時的に規模を縮小した。戦後スイスのルジンゲンで Mandolinismo 誌が創刊されると同年から楽曲を提供している。1924年に同誌が開催した作曲コンクールでは2作品が入賞しており、初期の主幹C.コレッタが寄せた賛辞からは、両者の親しい関係もうかがわれる。また、リッソーニとコレッタはいずれも Il Plettro 誌にも作品を発表していることから、同誌を主宰したA.ヴィツァーリとの関係も考えられる。主幹がM.ヴィカーリに代わった後も、リッソーニは Mandolinismo 誌に継続して作品を発表している。確認できるマンドリン合奏作品は、いくつかの例外を除いて1920年代に集中している。また、フランスの L’Estudiantina 誌からも数曲が刊行されていることは注目に値する。
本作は、確認できる範囲では、リッソーニが Mandolinismo 誌に発表した最後の作品である。美しい和声に彩られ、短いながらも巧みな展開を備えた、非常に滋味深い作品となっている。
冒頭は Andante pastorale。マンドラとギターが静かな揺らぎを作り、その上で第一マンドリンが歌うような旋律を奏でる。第二マンドリンも単なる伴奏にとどまらず、旋律を模倣するように動き、簡潔な書法のなかにも丁寧な声部の扱いが見られる。
MAGGIOREで長調へ転じると、音楽は一気に明るさを増し、羊飼いの素朴な情景というよりも、降誕の光景そのものが光に照らし出されるかのような広がりを見せる。その後、再び静まったところに、MISTICO imitando l’Organo、すなわち「神秘的に、オルガンを模して」と指定された場面が現れる。弱音で持続する和音と内声の穏やかな動きによって、洞窟がそのまま礼拝堂へと変わるような、深い宗教的静寂が生み出される。この部分は、本作の核心ともいうべき場面であろう。
終結部ではそのまま曲を閉じるのではなく、D.C. al segno per finireによって冒頭側へ戻る構成が採られている。短い作品でありながら、牧歌的な静けさ、降誕の喜び、神秘的な祈り、そして冒頭への回想という流れが明確に形作られており、軽快な舞曲を数多く残したリッソーニの作品群のなかでも、作曲技術と感情の深さの両面において、一段高い境地を示した作品といえるだろう。
作曲者の優れた感覚がうかがわれる作品であり、埋もれたままにしておくには惜しいと考えて取り上げた。ぜひクリスマスの時期に合奏していただきたい逸品である。
楽譜には、A mia sorella Suor Maria del Carmine con sincero affetto、すなわち「わが姉妹、カルメル山の聖母の名を戴く修道女マリアに、心からの愛情を込めて」との献辞が記されている。ここでいう Maria del Carmine は、「カルメル山の聖母」にちなむ修道名と考えられる。
リッソーニの実の姉または妹が修道女となり、この名を名乗っていたものと思われるが、所属した修道院や教会までは確認できていない。
題名の「ベツレヘムの洞窟」とは、ベツレヘムの聖誕教会地下にあり、イエス・キリストが誕生した場所と伝えられる洞窟を指している。「聖夜」や「降誕」といった直接的な言葉ではなく、その舞台となった洞窟を題名に掲げている点にも、作曲者の奥ゆかしい趣向が感じられる。
No.2415, 独創的舞曲 作曲 : G.マネンテ
○出典 Het Ned Mandoline Orkest, Bijlage No.47 (1928)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は1867年2月2日イタリア、カンパニア州ベネヴェント県モルコーネに生まれ、1941年5月ローマに逝いた作曲家、指揮者、トランペット奏者で、出生証明書に記載されたフルネームはジュゼッペ・フラヴィアーノ・カルロ・マネンテとなっている。現在イタリアでは20世紀前半のイタリア吹奏楽黄金時代を象徴する存在として再評価が進んでいる。
幼少時より父リボリオから音楽教育を受け、わずか13歳の時には、病に倒れた父に代わって市民コンサートの指揮を執ったとある。その後、ナポリのサン・ピエトロ・マイエッラ王立音楽院を卒業し、22歳の若さで陸軍第60歩兵連隊の軍楽長に就任した。1898年のトリノ万博では、800人以上で編成された大吹奏楽団を指揮している。以後も各地の軍楽長を歴任しながら、作品の大半を占める数多くの吹奏楽曲を生み出した。
作品総数は約440曲ともいわれるが、1939年にベラティ社から出版された作品には「592 bis」という番号も確認されるため、実際の作品数はさらに多かったと考えられる。吹奏楽曲を中心としながら、管弦楽曲、ピアノ曲、声楽曲、マンドリン合奏曲など幅広い分野に作品を残している。また、同一作品を吹奏楽、管弦楽、ピアノ、マンドリン合奏など複数の編成に編曲して発表した例も少なくない。
オランダのアルフェン・アーン・デン・レイン(ライデンとユトレヒトの間に位置し、野外歴史博物館アルケオンで知られる)で発行されていたHet Ned Mandoline Orkest誌はオランダ・マンドリン協会の公式月刊誌として発行されたが、楽譜はBijlage「付録」という位置づけであった。マネンテの作品としては本作の他に「ピエモンテ皇子」「桂樹のもとに」「アルバムの一葉」「おやすみなさいミミ」などがあり、いずれも日本のマンドリン界で広く知られ、現在まで演奏されている。
本作は作品番号が145という事で、「メリアの平原」Op.123と「小英雄」Op.167の間に位置する事から1909年から1910年頃にかけての作品と推測される。マンドリン五部合奏版以外に、ピアノ版、吹奏楽版、管弦楽版と多くの編成で残されており、作者のお気に入りの楽曲のひとつだったと思われる。
曲はModeratoで始まり、明快なリズムと鋭いアクセントを持つ主題が、各声部の応答を伴いながら展開される。題名こそ単に「独創的舞曲」とされているが、特定の舞曲形式に従った作品ではなく、行進曲風の力強さ、半音階的な旋律、急激な強弱の交替などを組み合わせた、マネンテ独自の性格的小品となっている。
中間部では調性や響きを変えながら、各声部に細かな音型が受け渡され、やがて brillante と記された華やかな部分に至る。終結部では冒頭へ戻ったのちコーダに進み、Più mosso、さらに各声部に stringendo sempre sino alla Fine と指示され、速度と緊張を高めながら力強く全曲を閉じる。
本邦では武井守成がいち早く1932年5月に「桂樹のもとに」「メリアの平原に立ちて」と共に取り上げており「楽器使用の自然さに特色を持つ」と評している。また、同年に行われた一連の録音にも本作が含まれ、この録音は後年、「マンドリン渡来100周年」を記念した復刻盤にも収録された。
本作は戦前からしばしば演奏され、中野二郎による六部編成の整曲版があってもよさそうであるが、確認が出来ていない。マネンテの作品として古くから題名を知られている一方、近年は演奏される機会が意外に少ない作品である。
No.2416, 短編小説「昔々!...」 作曲 : M.バッチ
○出典 Il Concerto, Anno 26-18 No.620 (1923)
○原編成 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ
○スコア 第一、第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
○パート譜 同上
作者は1873年フィレンツェに生まれた作曲家、マンドリン・ギター奏者、評論家、音楽教師。同地でサルヴァトーレ・フィチーニとヴィンチェンツォ・ビルリに和声と対位法を学び、グイド・モナコ・マンドリン合奏団の指揮者として活躍。優れたマンドリニストであったと同時に、マンドリン合奏の為に非常に多くの作品を残した作曲家として知られている。
本邦においても戦前から演奏されており、代表作にはフェラーラのマルゲリータ合奏団に贈った序曲「マリネッラ」“Marinella”、フィレンツェのムニエル合奏団に贈った序曲「ヴェルシリア」“Versilia”があり、いずれもA.ヴィツァーリ社から手写譜として発売され、共益商社(後のヤマハ銀座店)などを通じて日本にもたらされた。また1925年にリヴォルノのG.ヴェルディ合奏団に献呈された交響的印象「神秘の国」“In mundo arcani”は1926年に「明治大学が演奏した」という記録だけが残り(そもそも未出版曲でどのように入手したのかも不明)、長い間中野二郎氏がその行方を捜索しながら見つからず、石村隆行氏がイタリア留学中の1991年にようやく作者による非常に判別しづらい自筆譜を捜し当てたという逸話が残る。
その他のマンドリン合奏作品は1910年代から1930年代にかけて“Il Mandolino”、“Il Plettro”、“Il Concerto”、“L’ Estudiantina”、“Le Plectre”等イタリアとフランスの代表的な音楽誌に満遍なく提供されている。後年はローマに移り、文化連盟会長の要職も務めた他、パリやニューヨーク等に楽旅し、様々な音楽誌に多数の寄稿を残したと伝えられるが、特に“Il Plettro”誌には多くの論説が掲載された他、著作としてギター及びマンドリンの教則本がある(当館にはギターの第一巻のみ所蔵で、他はオザキ譜庫さんが所蔵しておられます)。なお、晩年はフィレンツェに帰ったと伝えられるが詳しい消息が判っていない。
作品は前述の3つの作品以外では単純な構成でやや通俗的なものが多いが、特にイタリア、フランス双方で多くの作品が出版されたという事から考えると双方の愛好家に受け入れられる作品が書けるというセンスを持ち合わせた人だった事に気がつく。(中野二郎氏の講話の中にはイタリアはフランスの曲は演奏しない、フランスはイタリアの曲は演奏しないというお話がある)
本作は武井音楽文庫に残されたもので、中野譜庫にも所蔵がない事から殆ど演奏された事がないと考えられ、知られざる作品の一つ。シンプルかつ親しみやすい曲想など、まさにメロディーメーカーとしての作者の面目躍如といった趣の小品である。

